Nicoの考え方

速く作れる時代に、私は十時間も貝を磨いていた

AIで速く作れる時代に、十時間かけて夜光貝を磨いた体験から、効率化、理解すること、美しさ、数字にならない価値、そして時間の使い方を選ぶ自由を考えるエッセイ。

執筆:ストット玲奈(Nico合同会社 代表)

公開日: / 最終更新日:

青い海と空を背景に、虹色の真珠層が輝く磨かれた夜光貝

まだ、光っていないもの

奄美大島で、夜光貝を見つけた。

白い背景に置かれた、まだ磨かれていない緑褐色の夜光貝

そこには、すでに綺麗に磨き上げられたものと、まだ磨かれる前のものがあった。

磨かれた夜光貝は、美しかった。

表面には独特の光沢があり、見る角度によって色が変わる。海の中にあったものが、人の手によって、こんなにも美しいものになるのかと思った。

けれど、不思議なことに、私が惹かれたのは、まだ磨かれていない方だった。

完成されたものを手に入れたいとは、あまり思わなかった。

それよりも、最初から自分の手で磨いてみたかった。

今はまだ見えていない光を、自分自身の手によって生み出してみたかった。

磨けばどんな色が現れるのか。

どこまで削れば光るのか。

そもそも、自分の手で本当にあんなにも美しくできるのか。

何も分からなかった。

でも、その分からなさが、どうしようもなく面白かった。

私は昔から、工作や工芸が好きだった。

何かを作ることも好きだったけれど、それ以上に、作っている途中で予想していなかったものが現れる瞬間が好きだった。

頭の中には、ある程度の完成形がある。

けれど、実際に手を動かしてみると、思い描いた通りにはいかない。

素材には素材の性質があり、手には手の癖がある。

思いがけない形になったり、予想していなかった色が生まれたりする。

そのたびに、最初に考えていた完成形が少しずつ変わっていく。

私は、そういう時間が好きだった。

夜光貝を磨くことも、それと同じだった。

表面を少しずつ削っていく。

磨いて、眺めて、また磨く。

ほんの少しだけ、内側の色が見えてくる。

それだけで嬉しくなった。

たったそれだけの変化に興奮して、また手を動かした。

気づけば、磨く時間は十時間ほどになっていた。

十時間。

今の私なら、その時間でいくつもの文章を書き、Webサイトを作り、仕組みを動かすことだってできる。

それなのに、私は十時間もかけて、ひとつの貝を磨いていた。

しかも、まだ完成していない。

でも、その時間を無駄だとは、一度も思わなかった。

むしろ、とても楽しかった。

何も考えず、ただ目の前のものに触れている。

少しずつ変わっていく表面を眺めている。

まだ見えていない色が、この先にあるのだと思う。

それだけで、十分だった。


一日で世界を作り直せるようになった

その少し前、私は会社のホームページを作り直していた。

青緑色の海から砂浜へ、波が静かに重なる海岸の空撮写真

もともとはSTUDIOというノーコードツールで作っていたサイトを、Replitという開発環境へ移した。

AIを使って、自然言語で修正や機能の追加を進められるようにしたかったからだ。

これまでは、何かを変更したいと思ったとき、その機能が使えるか調べたり、編集画面を操作したり、ときには技術的な制約を考える必要があった。

でも、AIを活用すると、私の頭の中にある構想を言葉にすることで、実装の作業を大きく前に進められる。

ここに、こんな情報を表示したい。

このページと、このページをつなげたい。

問い合わせが来たら、Slackに通知したい。

どの記事が読まれているのか、もっと詳しく分析したい。

過去のChatGPTとの会話から、私が考えてきたことを整理して記事にしたい。

そんな要望を、普段使っている言葉で伝える。

すると、AIがコードを書き、画面を変更し、仕組みを作っていく。

もちろん、言葉を伝えれば必ず正しいものが完成するわけではない。

生成された内容を確認する必要があるし、期待していたものと違えば修正する。情報の正しさや、何を公開するかという判断も必要だ。

それでも、構想が形になるまでの距離は、以前とは比べものにならないほど短くなった。

サイトの基盤を移す作業も、驚くほど短い時間で進めることができた。

その後も、記事を作り、SEOを整え、SNSの投稿案を生成し、人が承認してから公開する仕組みを作った。

かつて自分が話した言葉や、何気なく残してきたメモが、別の文章になって現れる。

考えていたことが、ページになり、記事になり、誰かに届けられる形になっていく。

私は、こういう技術が好きだ。

自分の中にあるものが、実際に動く何かへと変わっていく。

頭の中だけに存在していた構想が、画面の向こうに現れる。

そして、それを見た誰かが、また別のことを考えるかもしれない。

AIによって、以前なら多くの人や時間を必要としていたことを、個人でも実現しやすくなった。

私はその変化を、とても面白いと思っている。

それなのに。

そんなにも速くものを作れるようになった私は、十時間もかけて貝を磨いていた。

自分でも少し可笑しかった。

一方では、できる限り速く形にしようとしている。

もう一方では、速く終わらせることなど、ほとんど考えていない。

この二つの私は、本当に矛盾しているのだろうか。


速さが、当たり前になっていく社会で

私たちの社会では、多くのものが時間によって測られている。

窓から差す光が、淡い壁にゆっくりと影をつくる静かな部屋

一時間でどれだけ仕事が進んだか。

一日に何件対応できたか。

どれだけ短い期間で商品を開発できたか。

どれだけ少ない工数で成果を出せたか。

企業が限られた資源の中で事業を続ける以上、効率を考えることには意味がある。

同じ成果をより少ない負担で実現できるなら、その分だけ別のことに資源を使える。

医療や介護、教育、研究など、社会には時間も人手も足りていない仕事がたくさんある。技術によって無駄な作業を減らせることは、多くの人にとって価値があるはずだ。

だから、私は効率化を否定したいわけではない。

むしろ、仕事では積極的に効率化を進めたい。

ただ、一つ気になることがある。

速くできるようになったことは、いつの間にか、速くやらなければならないことへ変わってしまうのではないか。

以前は一週間かかっていた作業が一日でできるようになれば、一日で完成することが新しい基準になる。

一日に一つ作っていたものが十個作れるようになれば、次は十個作ることを求められるかもしれない。

技術が進歩することで、私たちは自由な時間を得る。

でも、その時間が自動的に自分のものになるとは限らない。

空いた時間には、新しい仕事が入る。

新しい目標が設定される。

昨日までの効率が、今日の非効率になる。

こうして、生産性が上がっているはずなのに、私たちはいつまでも忙しいままなのかもしれない。

これは、AIそのものの問題というよりも、技術によって生まれた余裕を社会がどう扱うかという問題なのだと思う。

速く作れることと、自由に生きられることは、同じではない。

何を速くするかだけでなく、速くできるようになった先に何を残すのか。

これからの社会には、そんな問いも必要になるのではないだろうか。


私は、昔から理解したがる人間だった

私は、昔から物事の理由を考えてしまう。

青や淡い紫の光が重なり、輪郭がゆらぐ抽象的な写真

なぜ、その人はそう考えたのだろう。

なぜ、その出来事が起きたのだろう。

なぜ、自分はこんな感情を抱いたのだろう。

仕事でも、同じだった。

誰かから「ホームページを作りたい」と相談されたら、私はまず、なぜホームページを作りたいのかを考える。

何を実現したいのか。

どんな問題があるのか。

その問題は、本当にホームページを作ることで解決するのか。

もしかしたら、解決すべき問題は別のところにあるのではないか。

そうやって、一度与えられた問いを、もう少し根本にある問いへと戻していく。

物事を分解し、その関係を整理し、成り立っている構造を理解しようとする。

それは、私にとってごく自然な行為だった。

人間についても同じだ。

人の考え方には、その人が見てきた世界や経験してきた出来事が関係している。

同じものを見ても、同じ意味を見いだすとは限らない。

同じ言葉を聞いても、同じ感情が生まれるとは限らない。

では、その違いはどこから生まれるのか。

その人は何を見て、何を選び、何を恐れてきたのか。

私は、そういうことを考えるのが好きだ。

そして、自分自身についても、同じように問い続けてきた。

なぜ私は、こういう考え方をするのだろう。

なぜ私は、これを美しいと思うのだろう。

なぜ私は、あるものを手放せて、あるものは手放せないのだろう。

理解することで、見えてくるものがある。

それまで偶然だと思っていた出来事に、構造が見つかることもある。

何となく感じていた違和感が、言葉になることもある。

自分でも分からなかった感情の輪郭が、少しずつ明らかになることもある。

私は、理解することを諦めたいとは思わない。

むしろ、どこまでも理解したい。

知らないことを知りたいし、見えていなかったものを見たい。

昨日より今日、今日より明日、世界についてもっと多くのことを知りたい。

けれど、私は同時に思う。

きっと、すべてを理解しきることはできない。

それは、人間の知性には限界があるから、という理由だけではない。

私自身も、世界そのものも、常に変化しているからだ。

昨日の私が理解した私と、今日の私は、すでに同じではない。

新しい人と出会う。

知らなかった本を読む。

初めての場所へ行く。

何かを作り、失敗し、思いがけないことに感動する。

そのたびに、新しい情報が私の中へ入ってくる。

新しい経験は、ただ知識として積み重なるだけではない。

それまで持っていた価値観を変えることもある。

大切だと思っていたものが、そうではなくなることもある。

興味のなかったものが、突然、自分にとって欠かせないものになることもある。

そうやって、私は少しずつ変わっていく。

自分についての理解が深まったと思った頃には、その理解の対象である自分自身が、また少し変わっている。

つまり、私を理解するという行為には、完成がない。

固定された、唯一の「本当の私」がどこかに隠されていて、すべての層を剥がせば、いつかそこに辿り着く。

私は、そうは思っていない。

私は、変わり続けていることも含めて、私なのだと思う。


磨くことで、初めて見えるもの

夜光貝を磨いていると、面白いことが起きる。

白い背景に並ぶ夜光貝と、殻の内側に輝く真珠層

磨く前には、内側にどんな色が隠れているのか、完全には分からない。

ある程度は想像できる。

磨かれた夜光貝を見たことがあるから、きっと美しくなるのだろうとは思っている。

でも、目の前にあるこの貝が、実際にどんな姿になるかは分からない。

だから、磨く。

少し磨いてみる。

見えてきたものを観察する。

今度は、別の場所を磨いてみる。

すると、また違う色が現れる。

そのたびに、次に何をするかが変わっていく。

最初から、すべての工程が決まっているわけではない。

手を動かして初めて、次にどうすればよいかが見えてくる。

私は、ここに自分の思考とよく似たものを感じる。

何かを理解するときも、最初からすべてが分かっているわけではない。

まず、目の前にあるものを見つめる。

問いを立てる。

少し調べてみる。

すると、以前には見えていなかったものが現れる。

そして、その発見によって、次に考えるべき問いが変わる。

理解とは、最初から存在している答えを一度に手に入れることではない。

知ることによって、次に知りたいことが生まれていく、終わりのない過程なのではないか。

ただ、貝と人間には、一つ大きな違いもある。

貝は磨けば、内側にあった層が少しずつ姿を見せる。

けれど人間は、理解しようと触れることによって、理解される側も、理解する側も変わっていく。

誰かと深く話したことで、相手の考えが変わることもある。

その言葉を聞いた自分が変わることもある。

昨日まで知らなかった何かを知っただけで、世界の見え方そのものが変わってしまうこともある。

だから、人間を理解することは、貝の内側にある光を探すこととは少し違う。

人間の内側には、最後まで変わらないひとつの完成形が眠っているわけではない。

私たちは、出会うものによって、何度でも新しい形になる。

そして、何かを知ったという経験そのものが、次の自分を作っていく。

だとすれば、理解とは、自分の本質を発見するだけの行為ではない。

理解しようとすることもまた、自分を創造する行為なのだと思う。


美しいものは、説明できなくてもいい

昔から私は、何かを美しいと思ったとき、その理由を知りたくなる。

ピアノの鍵盤に指を置く手元

なぜ、この色に惹かれるのだろう。

なぜ、この音を聴くと懐かしくなるのだろう。

なぜ、この形を見ていると、いつまでも飽きないのだろう。

夜光貝の輝きにも、物理的な理由がある。

光がどのように反射し、どのような構造によって色が現れるのか。

そういうことを知るのも、私は好きだ。

理解することによって、美しさが失われるとは思わない。

むしろ、その成り立ちを知ることで、さらに美しく見えるものもある。

音楽だってそうだ。

和音の構造を知る。

旋律の動きを理解する。

ある言葉が、なぜその音と結びついたときに心を動かすのかを考える。

そうして知識が増えていくことで、以前には気づけなかった美しさが見えてくる。

けれど、そのすべてを説明できたとしても、私がその曲を好きな理由を完全に言い表せるとは限らない。

同じ曲を聴いても、昨日と今日では違うことを感じる。

ある日、何でもなかった歌詞が、突然、自分自身のことのように聞こえることがある。

反対に、以前は涙が出るほど大切だった曲を、穏やかな気持ちで聴けるようになることもある。

曲が変わったわけではない。

私が変わったのだ。

あるいは、私とその曲の関係が変わったのだ。

美しいと感じることも、固定されたものではない。

美しさは、物の中にだけ存在するのではなく、それに触れる私との関係の中で生まれているのかもしれない。

だとすれば、ある瞬間の美しさを理解したとしても、次の瞬間には、また別の美しさが生まれ得る。

だから私は、理解することと、理解できないものが残ることは、矛盾しないと思う。

分からないから美しいのではない。

分かってもなお、新しく現れるものがある。

知識が増えても、感動が終わるわけではない。

むしろ、知ることで、まだ知らない世界の広さに気づく。

理解の先に、必ずしも答えがあるとは限らない。そこには、次の問いがあるのかもしれない。

夜光貝を磨きながら感じていた興奮は、きっとその感覚に近い。

少しだけ光が現れる。

私は、その色を知る。

でも、その瞬間、まだ見えていない別の光があるのではないかと思う。

だから、もう少し磨いてみたくなる。


数字にできないものは、価値がないのだろうか

仕事をしていると、成果を数字で確かめることが多い。

木材を手で磨く職人の手元

どれだけ売れたのか。

何人が利用したのか。

どれだけの時間を削減できたのか。

そうした数字は、何かを改善するために必要なものだと思う。

私自身も、事業を考えるときには数値を重視する。

何かを作って終わりではなく、実際に使われているのかを確かめたいし、次に何を変えるべきかを判断したい。

ただ、数字は、あらゆる価値を表しているわけではない。

夜光貝を十時間磨いたとして、その行為の成果をどう測ればよいのだろう。

磨く前と後の光沢の違いだろうか。

完成品の価格だろうか。

一時間あたりに磨いた面積だろうか。

もちろん、それらを測ることはできるかもしれない。

でも、ほんの少し色が見えたときの興奮や、気づけば時間を忘れていたあの感覚は、そこには含まれていない。

経済的な価値と、個人にとっての価値は、必ずしも一致しない。

そして、測りにくいからといって、存在しないわけでもない。

私たちは、評価しやすいものを重視しやすい。

速さ、数量、利益、効率。

比較できるものは、意思決定の材料にしやすいからだ。

一方で、没頭する喜びや、偶然の発見、自分の手で何かを生み出したという感覚は、他人と比較するのが難しい。

だからこそ、それらを守るには、ときどき意識的な判断が必要なのかもしれない。

もちろん、誰もが好きなだけ時間を使えるわけではない。

生活のために働かなければならない人もいるし、時間やお金に余裕がなければ、没頭すること自体が難しい場合もある。

だから、ただ「ゆっくり生きればいい」と言うだけでは、十分ではない。

大切なのは、個人が効率を選べることと同じくらい、効率以外の価値を選ぶ余地が、社会の中にも残されていることなのだと思う。

技術が人間の時間を生み出すのであれば、その時間を何に使えるようにするか。

私は、そこにも技術の進歩の意味があると思っている。


速さは、何のためにあるのだろう

AIを使えば、たくさんのことを速くできるようになる。

淡い青の海と砂浜の境界に、幾重もの波紋が広がる写真

文章を書く。

情報を整理する。

デザインを考える。

システムを作る。

数値を分析する。

これまで時間をかけていた作業の多くが、以前より短い時間で実現できる。

私は、この変化を素晴らしいと思っている。

技術が進歩することで、それまで専門家しかできなかったことを、もっと多くの人ができるようになる。

自分の中にあるアイデアを、技術的な制約のために諦めなくてもよくなる。

やりたいことがあっても、資金や時間が足りずに形にできなかった人が、一歩を踏み出しやすくなる。

それは、人間の可能性が広がることだと思う。

でも、技術が何かを可能にすることと、それが誰にとっても同じように使えることは違う。

AIを使うにも、判断するための知識や、試すための時間、失敗したときに引き受ける責任が必要になる。

だからこそ、技術の進歩を、人間が判断しなくてよくなることだとは考えたくない。

むしろ、作ることが簡単になればなるほど、何を作るか、なぜ作るかという問いが重要になる。

そして、ここで私はもう一つ考える。

私たちは、何のために時間を短縮しているのだろう。

たくさんのことを成し遂げるためだろうか。

より多くのお金を稼ぐためだろうか。

より多くのものを作るためだろうか。

もちろん、それらも大切な目的になり得る。

仕事には期限があるし、人との約束もある。

限られた時間の中で何かを実現しようとするとき、速く作れることには大きな価値がある。

私自身も、AIによって多くの作業を短縮できるようになったことを喜んでいる。

けれど、速くできるようになったからといって、すべてを速くしなければならないわけではない。

夜光貝を、もっと効率的に磨く方法もあるのだろう。

もっと便利な道具を使えば、短い時間で美しい状態にできるかもしれない。

私は、そうした道具を使うことも否定しない。

ただ、あのとき私が欲しかったのは、綺麗な夜光貝だけではなかった。

自分の手によって、まだ見えていない色が現れること。

何が起きるか分からないまま、素材に触れ続けること。

ほんの小さな変化を見つけて、嬉しくなること。

その時間そのものを、私は楽しんでいた。

もし、数秒で完成された貝が手に入ったとしても、同じ経験にはならなかったと思う。

だからといって、時間をかければかけるほど価値が生まれるとも思わない。

苦労したから偉いわけでも、非効率だから美しいわけでもない。

重要なのは、速いか遅いかではないのだと思う。

その時間を、自分が何のために生きているのか。

仕事では、できるだけ速く構想を形にしたい。

頭の中にあるものを実現し、誰かに使ってもらい、新しい発見を得たい。

そのためにAIが役に立つのであれば、私はこれからも積極的に使うと思う。

一方で、何かを作る過程そのものに意味を感じるときは、ゆっくり手を動かしていたい。

それが十時間であっても、百時間であっても。

その時間にしか出会えないものがあるのなら、私はそれを大切にしたい。

便利さによって得られる自由もある。

便利さを使わないことで得られる自由もある。

技術の進歩によって生まれる最も大きな価値は、単に時間が短縮されることではないのかもしれない。

何に時間を使うかを、自分で選べるようになること。

私には、それがとても大切なことのように思える。


完成しないものを、作り続ける

ここまで考えてみると、私が仕事をしているときと、貝を磨いているときは、思っていたほど違わないのかもしれない。

青と白の光が流れ、輪郭を変えながら広がる抽象写真

仕事では、誰かの抱えている問題を理解しようとする。

どこに課題があるのか。

何を変えればよいのか。

どんな仕組みが必要なのか。

考えたことを形にして、実際に動かしてみる。

すると、新しい問題が見つかる。

最初には想像していなかった使い方が生まれる。

作って初めて、次に作りたいものが見えてくる。

夜光貝も、同じだった。

磨いてみる。

少しだけ光が現れる。

その光を見たことで、また別の場所を磨きたくなる。

どちらも、最初からすべてを知っているわけではない。

実際に触れ、変化を観察し、その変化によって、次の行動を決めている。

そして、作っているものが変わるのと同時に、作っている私自身も変わっている。

これは、音楽でも同じだ。

ある感情を言葉にしようとする。

うまく表現できないから、何度も書き直す。

すると、最初に抱いていた感情とは少し違うものが現れてくる。

私は、もともとの感情を正確に保存しているのだろうか。

それとも、言葉にすることによって、新しい感情を生み出しているのだろうか。

たぶん、その両方なのだと思う。

私たちは、世界を理解しようとする。

そして、理解しようとする過程で、世界との関係を変えていく。

何かを作ろうとする。

そして、作る過程で、作りたかったものそのものが変わっていく。

自分を知ろうとする。

そして、知ろうとする過程で、自分自身が変わっていく。

だから私は、人生に完成形があるとは思わない。

ある時点で、自分のことを完全に理解して、もう変わる必要も、学ぶ必要もなくなる。

そんな日は、きっと来ない。

そして、それを悲しいとも思わない。

常に何かに出会い、何かを知り、何かに心を動かされる。

昨日までの自分には想像できなかったものを美しいと思う。

以前は選ばなかったものを選ぶ。

もう必要ないと思っていたものを、また大切に思う。

そうやって、私たちは変わっていく。

完成していないということは、まだ何かになれるということでもある。

それは、私がものを作り続けたい理由の一つなのかもしれない。


もう少しだけ、磨いていたい

十時間ほど磨いた夜光貝は、まだ完成していない。

木々に包まれた谷を静かに流れる水

少しずつ色が見えるようになったけれど、これからどんな姿になるのかは、まだ分からない。

私は、いつか綺麗に磨き上げられた姿も見てみたいと思っている。

そのために、これからも手を動かすだろう。

でも、今すぐ完成させなければならないとは思っていない。

もう少し磨けば、また違う色に出会えるかもしれない。

あるいは、思っていたような色にはならないかもしれない。

それでも、きっと面白い。

私は、これからも世界を理解しようとすると思う。

人がなぜそう考えるのか。

物事がなぜそう成り立っているのか。

自分がなぜ、その何かを美しいと思ったのか。

これまでと同じように、何度でも問いを立てるだろう。

そして、新しい答えを見つけるたびに、また新しい問いが生まれるのだと思う。

私は、それでいい。

理解しきれないことは、理解することの失敗ではない。

世界も、他者も、私自身も、変わり続けている。

だからこそ、知りたいことはなくならない。

だからこそ、作りたいものもなくならない。

明日、私はまたAIとともに、何かを速く作るだろう。

そして、何時間もかけて、ひとつの貝を磨く日もあるだろう。

速く作れるようになったからといって、すべてを急ぐ必要はない。

十時間磨いて、ようやく少しだけ光が見えた。

まだ、磨いていないところがたくさんある。

まだ知らない色が、そこに眠っている。

それが、こんなにも嬉しい。

著者について

ストット玲奈|Nico合同会社 代表

事業づくり、テクノロジー、デザイン、アートを横断するクリエイター/起業家。約3年間のシリコンバレーでの経験とデザイナーとしての活動を背景に、企業の構想整理・要件定義からシステム構築、デザイン、運用改善まで伴走する。

シーシャのミックスを記録・共有するアプリ「モクログ」を個人開発。オフィスタワーの共用空間を活用したアート展のプロデュースや、「Nico。」としての作詞・作曲・歌唱など、幅広い創作活動も手がける。

過去には、人の自律性と主体性を育むことを目指し、フリーランス向けAIマネージャー「Qocolor」を開発。「Life is about Creating Yourself.」を軸に、人や企業の想いを具体的な選択肢と行動へつなげている。

IVS Launchpad SEEDファイナリスト、APT Women採択、J-StarX女性起業家シリコンバレー派遣プログラム参加。

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この記事の問いと構造化の考え方は、複数部門の要望を整理し、意思決定の材料へ変える仕事で使っています。

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